アイヌ語の音節は「子音+母音」または「子音+母音+子音」という構造をしています。プ、ク、シ、ム(半角)はそれぞれ音節末子音のp,k,s,mを表記したものです。また、ッは音節末のt、またはpp,tt,kkといった子音の連続を表記したものです。半角のラ行は音節末のrを表記したもので、直前の母音と同じ段の音を半角で示しています。
■アイヌ語の基礎
アイヌ語の系統関係は不明で、おそらく日本語族とも関係を持ちません。しかしながら、長年の言語接触によってアイヌ語は日本語に影響を受けてきました。決定的なものとして、音韻体系や主語・目的語・動詞 (SOV) 語順の類似、さらにいくつかの分析的な文法構造においても見るからに明らかな類似が確認できます。
とはいえ、より深いレベルで見れば、アイヌ語と日本語は構造的にかけ離れた言語です。そのため、ここでは主としてアイヌ語と日本語の「違い」にフォーカスを合わせて説明していきます。「違い」は同時にアイヌ語の基本的特徴を表し、読者のみなさまがテキストを理解するためのエッセンスとなるからです。
▶語順 (SOV) について(日本語と同様)
▶主語と目的語の名詞句に格標示がないこと
| (1) |  |
| ウウェカラパレ |
| uwekarpare |
| ~を集める |
| gather |
「村人たちは食料を集めた。」
‘The villagers gathered food.’ (K7803232UP.073)
主語の kotan kor utar「村人たち」(直訳:村を持つ人々)と目的語の aep「食料」は格が標示されていません。ここでは、主語と目的語で示される参与者の両方が三人称(彼(ら)/彼女(ら)/それ(ら))です。従って、どちらが主語で目的語なのかは、それらの文における相対的な序列 (SOV) と文脈だけがある程度の手がかりとなります。
▶動詞につく義務的な人称標示について(三人称はゼロ標示)
主語や目的語が三人称ではない場合、述語(=動詞)は特別な標示を用いて主語・目的語の人称や数に一致させます。
| (2) |  |
| エ= |
| e= |
| 2単.自主(あなた)= |
| 2SG.S(you)= |
「お前が一番年下だった。」
‘You are the very youngest.’ (K8109193UP.148)
pon「小さい、若い」は、形容詞のように見えるかもしれませんが自動詞です。アイヌ語では、全ての「形容詞」が自動詞の下位分類になります。そのうえでこの文を見ると、動詞の pon「小さい、若い」が、二人称単数自動詞主語標示 e=(二人称単数)をとっており、この文の主語である二人称代名詞の eani「あなた(単数)」に一致していることがわかります。
▶独立代名詞が概ね省略されること
まさに日本語と同じように、アイヌ語も代名詞を用いないのが最も自然な文です(eani「あなた」を用いた (2) と代名詞無しの (3) の文を参照)。ただし、動詞につく人称標示は省略することができません。もし省略してしまうと、三人称の主語あるいは目的語という (1) のような解釈になってしまうからです。
| (3) |  |
「まだお前は幼いので」
‘You are still young.’(K7908051UP.231)
▶自動詞と他動詞が明確に区別できること
| i. | 自動詞と他動詞は、格標示のない(裸の)名詞がいくつあるかで区別されます((1)と (2)を参照)。また、三人称にはありませんが、動詞につく標示を他動詞は二つ(主語と目的語にそれぞれ一つ)とることができ、その点で自動詞と区別されます。 |
「あなた達は私に声をかけてくれればよかったのに!」
‘You(PL) may have called out to me.’ (田村すず子(1984)『アイヌ イタク アイヌ語入門 解説』.東京:早稲田大学語学教育研究所、36ページ)
| ii. | 自動詞と他動詞の違いは、主語を表す人称標示のいくつかにも見られます。人称のなかでも、例えば、除外的一人称複数(つまり、「私と彼(ら)/彼女(ら)」という意味での「私たち」)は、自動詞と他動詞とで主語に対して別々の人称標示を用います。(5) は他動詞が ci=「私たち」を、(6) は自動詞が =as「私たち」を主語標示として用いている例です。このように自動詞と他動詞は一貫して区別されるため、本コーパスでは、グロスの ‘S’ が自動詞主語を、 ‘A’ が他動詞主語を表すようにしました。 |
| (5) |  |
「(昼も)これをした。」
‘(Through the day,) we were doing it.’(K7807151KY.007)
| (6) |  |
| =アシ |
| =as |
| =1PL.EXC.S |
| =1複.除外.自主 |
「暮らしていたところ」
‘(And so) we lived.’ (K7807151KY.008)
▶四人称の形態と機能について
アイヌ語の一風変わった特徴は、一人称と二人称の動詞標示(三人称は無標示)に加えて、四人称という「さらなる人称」があることです。「四人称」とは、多くの機能に対してつけた共通のラベルです。それらの機能は様々ですが、同じ標示を完全にあるいは部分的に共有しており、歴史的な関連性も見込まれています(表1)。
表1 アイヌ語沙流方言の人称・数の標示
| 代名詞 (A/S/O) | A標示 | S標示 | O標示 |
| 一人称単数 | kani「私」 | ku= | ku= | en= |
| 一人称複数除外形 | cóka「私たち(私と彼(ら)/彼女(ら))」 | ci= | =as | un= |
| 二人称単数 | eani「あなた」 | e= | e= | e= |
| 二人称複数 | ecioká「あなたたち」 | eci= | eci= | eci= |
| 三人称単数 | sinuma「彼/彼女」 | Ø | Ø | Ø |
| 三人称複数 | oka「彼ら/彼女ら」 | Ø | Ø | Ø |
| 四人称: |
| 1. 不定人称「(一般的な)人」 | ― | a= | =an | i= |
| 2. 一人称複数包括形 | aoka「私たち(あなたと私)」 | a= | =an | i= |
| 3. 二人称(単・複数)敬称 | aoka | a= | =an | i= |
| 4. ロゴフォリック(単数) | asinuma | a= | =an | i= |
| 5. ロゴフォリック(複数) | aoka | a= | =an | i= |
本コーパスのテキストの理解に最も重要なのは、いわゆる「ロゴフォリック」という四人称の機能です。なぜなら、大部分のジャンルにおける物語の主人公の人称は、慣例的にこの機能で示されるからです。また、おそらく多くの物語が報告の談話形式をとっているということも、四人称ロゴフォリックの説明には必要となるでしょう。物語の内容全文が引用であることや、その物語の叙述者が誰なのか(「あるご婦人」など)ということは物語の最後の文 (7) で明かされます。こうしたなかで、四人称ロゴフォリックを使用したアイヌ語は慣例的に「私」と訳されますが、これは物語の実際の語り手(つまり、木村きみさん)を意図した「私」ではありません。物語のなかの語り手、つまり物語の主人公であるところの「私」なのです。
| (7) |  |
| シリ |
| sir-i |
| appearance-POSS |
| 様子-~の |
| イ |
| hi |
| thing/place/time |
| こと/ところ/とき |
| ポウタリ |
| po-utar-i |
| child-PL-POSS |
| 子ども-複-~の |
| エパシクマ. |
| e-paskuma |
| about.APPL-tell |
| ~について-~に伝える |
「私もこのように年老いたので、息子たちに伝え残すのだ。
‘ “…I have grown so old. That is why I am telling my sons this,”
| ハウェアン |
| haw-e-an |
| voice-POSS-exist.SG |
| 声-~の-ある.単 |
と、立派な婦人が語ったと。」
a fine woman said.’ (K8109193UP.168-169)
▶名詞につく人称標示について
人称標示は名詞に付いてその所有者を示すこともできます。このため、普通名詞は他動詞の主語人称標示 (8a) をとります(表1の「A標示」欄を参照)。また、いわゆる位置名詞は目的語人称標示 (9) をとります(表1の「O標示」欄を参照)。
このように、普通名詞が所有名詞(被所有者)として扱われる場合は、人称を表す接頭辞 (8a) によって所有者の人称と数が示されるだけではありません。その語根末の音素に応じて変わる所有格接尾辞 -hV や -V(hV) によっても表示されます。しかし、所有格接尾辞は実際の所有者の人称や数について何も言わず、所有者の存在だけを名詞に標示します。(8b) のように人称を表す接頭辞が無い形式は、所有者が三人称であるという解釈を自動的に得ることになるわけです。
| (8) |  |
「お前たちの父親」
‘your father’ (K7803231UP.082)
| アキヒ |
| ak-ihi |
| younger.brother-POSS |
| 弟-~の |
「彼の弟」
‘his/her younger brother’ (K7803231UP.082)
| (9) |  |
「私の前に」
‘in front of me’ (K8109193UP.099)
▶目的語と付加語について
目的語は格標示を受けませんが、付加語は格助詞(場所格、具格 (11)、共格など)を必要とします。一方、目的語が一人称や二人称である場合は、動詞に人称標示を伴いますが、付加語はその必要がありません。なお、動詞は、(10) のように目的語を二つとることがあります。しかし(通常、目的語の一つは三人称であり、それはもはや人称標示を必要としないため)二つのうち一つだけが動詞に標示されると言えるでしょう。
| (10) |  |
| ウシケ |
| usi-ke |
| place/time-place |
| 場所/とき-ところ |
| コプニ, |
| ko-pun-i |
| to.APPL-lift-TR.SG |
| ~に-(~を)上(げる)-他形成.単 |
「よいところを父親によそった。」
‘She served the good parts to her father.’ (K8010291UP.144)
| (11) |  |
| キオトゥイェ |
| ki-o-tuy-e |
| reed-bottom.POSS.PF-cut-TR.SG |
| カヤ-尻.~の.接頭-(~を)切(る)-他形成.単 |
「その山刀で草を刈って、」
‘With the mountain knife, I cut reed.’ (K7803233UP.124)
▶動詞の複数性について
もう既にお気づきかもしれませんが、このコーパスの多くの動詞語幹には、単数 (SG) か複数 (PL) のいずれかがグロスされています。この単複の区別には、動詞語幹が様々な接尾辞をとることや、完全に別の語幹に代わってしまうものがあります。例えば、(a) sa-n(前‐自形成.単)「(一人の人が)海岸へ下る」– sa-p(前‐自形成.複)「多くの(人が)海岸へ下る」、(b) rayke 「(熊一頭)を殺す」– ronnu「多くの(熊)を殺す」。自動詞の場合、その複数性は (a) のように主語の指示対象が複数であることを示します。それに対して、他動詞の場合は、目的語の指示対象が複数であることを表すことが多いのですが、これは絶対的な規則ではありません。
実際のところ、アイヌ語の動詞が示す複数性は、行為の複数性(多回性)がもとになっており、それがいまも部分的に維持されているのです。これは特に他動詞の場合に明確となります。例えば、一匹の魚を何度も切ると言う場合でも、動詞の単数形 tuy-e「~を切る(単数)」の代わりに、動詞の複数形 tuy-pa「~を切る(複数)」を用います。行った行為の回数がカウントされるというわけです。
モダリティと証拠性について
アイヌ語には、まさにそれが時制を表すような標示はありません。ただし、動詞の後に続く不変化詞や助動詞を用いて、モダリティや証拠性を示す巧みな手段を備えています。アイヌ語は、形式的に四種類の証拠性を表すシステムをもっています。命題はその情報源に応じて、視覚(siri、直訳:「~の様子」)、非視覚的感覚(humi、直訳:「~の音」)、伝聞(hawe、直訳:「~の声」)、推量(ruwe、直訳:「~の跡」)のいずれかの証拠性を用いて表すことが可能です。アイヌ語の証拠性は名詞起源の名詞化辞で、(12) や他の例文に見られるように他動詞的な繫辞(コピュラ)が続きます。ですから、(12) の直訳は「私はもう年老いた様子[あるいは、音/声/跡]である」となります。
| (12) |  |
「私ももう年老いてきた。」
‘I had also grown old.’ (K7803233UP.400)
| (13) |  |
| サハ |
| sa-ha |
| older.sister-POSS |
| 姉-~の |
| トゥラノ |
| tura-no |
| together.with-ADV |
| ~を連れる-副 |
| クナク |
| kunak |
| going/expected/should.COMP |
| する予定/はず/べき.こと |
「姉さんは普通の人間で、一緒に暮らしているのだと思っていたのに」
‘Isn’t older sister a normal human that I am living with?’ (K8109193UP.072)
| (14) |  |
「言うにことかいて、人生の途中で奪っていくなどと言って」
‘You even said that you were going to abduct a young person in the middle of her life.’ (K8010291UP.327)
| (15) |  |
| ポンラム |
| pon-ram |
| be.small-heart |
| 小さい-心 |
| ウエインカラ |
| u-e-inkar |
| REC-about.APPL-look |
| 互い-~について-目を向ける |
「私は小さい時から、千里眼を持っていて、」
‘I was clairvoyant ever since I was small.’ (K8109193UP.084)
▶アイヌ語の複統合的な性質について
複統合的な言語では他言語と比較した場合に、その動詞が全文の情報を含んでいることがあり、その意味で動詞自体が自らを補っています。例)nis1-o2-sit3-ciw4「雲1 の2 尻2 が地平3 を刺す4 (ところの向こうに)」(K7807152KY.027)。
アイヌ語の複統合的な特徴は、いくつかの標示で表される広範な態のシステム(相互、再帰、逆受動、使役、逆使役、充当態)や名詞抱合((16) の ipe「食事」を参照)、前述した動詞の主語/目的語人称標示にはっきりと見てとれます。
| (16) |  |
| ヤイペエコスンケ |
| yay-ipe-e-ko-sunke |
| REFL-food-about.APPL-to.APPL-lie |
| 自分-食事-~について-~に対して-嘘をつく |
「いいかげんな食事をする。」
‘Eat meager meals.’ (lit. ‘lie to oneself about food’) (K8010291UP.183)
ここではアイヌ語についてとても短く紹介することしかできませんでしたが、みなさんがご自分でテキストを学習する際の手助けとなり、アイヌ語の特徴を心から楽しんでいただくきっかけになれば幸いです。
アンナ・ブガエワ
■アイヌ口承文芸のジャンルについて
本コーパスでは、神謡(カムイユカラ)と散文説話(ウエペケレ)を取り上げました。この他によく知られている口承文芸として、空を飛ぶなど人間離れした力を持つ主人公が活躍する英雄叙事詩(ユカラ)と呼ばれる韻文の物語があります。
▶神謡
神謡は、サケヘと呼ばれる折返し(リフレイン)の言葉をはさみながら語られる韻文の物語です。沙流方言ではカムイユカラといいます。神謡の一行は基本的に4~5音節で構成されます。この音節数を合わせるため、意味のない決まった言葉(日本語グロス「虚辞」参照)が入れられることもあります。
本コーパスではサケヘをVという記号で示しました。サケヘはそれぞれのお話ごとに異なっていて、一つのお話に複数のサケヘがあることもあります。
神謡には、カムイ(「神、精霊」)が自分の体験を語るという形のお話が多くみられます。本コーパスには火やケムカチカッポという鳥が主人公となるお話が収録されています。主人公となるカムイは上記のように動植物や自然に存在するものであることもありますが、舟などの人工物であることもあります。本コーパスに収録したお話でも火のカムイが針仕事をしている描写があるように、カムイはカムイモシリ(カムイの世界)では人間と同じような生活を送っていると考えられています。
▶散文説話
散文説話は、音節数の調整を意識しない散文で語られる物語です。沙流方言ではウエペケレといいます。
散文説話には、人間の主人公が年老いて亡くなる前に、これまで自分の人生で起きた出来事を言い残すという形のものが多くみられます。本コーパスに収録したお話では、クマに惚れられたり、トパットゥミ(群盗、夜襲)がやって来たりといった波瀾に富んだ出来事が語られます。主人公はそれを乗り越えたのち、結婚して子供にも恵まれます。そして、食べ物にも困らず何不自由ない暮らしを送り、天寿を全うしたという形で締めくくられます。主人公が子孫に向けてメッセージを残すこともあります。本コーパスに収録したお話では、良い行いをすればカムイに見守られて幸せになれるということを主人公が子孫に言い残す場面がみられます。
この他に主人公が二人登場し、成功した片方を見て、もう一方がまねをして失敗するというパターンのお話もあります。本コーパスにもこのタイプの物語を収録しました。
また、和人に伝承された物語を取り込んだもので、散文で語られる和人の散文説話(シサムウエペケレ)もあります。
小林美紀
■謝辞
音声データ録音のご協力ならびにアイヌ語沙流方言についてご教示いただいた木村きみさんと本資料の公開をご許可いただいたお孫様の木村保則さん、およびそのお母様の木村シゲさんに深く感謝を申し上げます。
さらに、以下の方々にも感謝を申し上げます。(五十音順)
- 赤瀬川史朗さん(Lago言語研究所):オンライン成果物の開発
- 遠藤志保さん (北海道博物館研究職員、国立国語研究所プロジェクト共同研究員):テキストの行分け
- 貝澤珠美さん(Sikerpe Art):インターフェースのアイヌ文様の作成
- ルメ・セラーさん(翻訳事務所):英語校閲、翻訳
- 長崎郁さん(国立国語研究所プロジェクトPDフェロー):データの処理、特にToolboxソフトウェア使用に関するアドバイス
- 深澤美香さん(千葉大学博士課程、国立国語研究所プロジェクト共同研究員):音声の編集、翻訳
- 吉川佳見さん(千葉大学博士課程、国立国語研究所プロジェクト研究協力者):カタカナ表記及び音声的特徴についての情報提供
それから、
本成果物の作成にあたって、お世話になった多くの国立国語研究所の教職員の方々、
現地調査中の援助と激励をくださった平取町二風谷の方々に、
そして、
過去から現在に至るまでのすべてのアイヌ民族に、
彼らの美しい言語と文化に関する知識が共有できることを、
心より感謝いたします。
アンナ・ブガエワ